• 2005.01.17 Monday

Remember The Quake

1995年1月17日早朝。
私は1歳半の娘とともに里帰り中で、
兵庫県芦屋市にいた。

突然の地鳴り、大揺れ。
家具が倒れ、ガラスが割れる音。
暗闇の中、余震をやりすごす心細い時間。

日が昇るとマンションの入り口に人が集まり、
誰かが持ち出した1台のラジオを囲む。
震源が淡路島と知り、驚愕する人々。
「ここがこんなやったら東京どないやねんと思てたのに」
「最初はなんかの爆発かと思たわ」
関西に大地震が来るなど、
まったく予期していなかった私たちの無知。

「〜では○×となっている…という情報もあります」と、
信じられないぐらい曖昧なニュースを伝えるラジオ。
地震直後、メディアもそれほど混乱していたのだ。

自宅の窓から見える芦屋市南部に火の手があがる。
消火活動は進んでいない。なぜ? なぜ?
空を飛ぶのはマスコミのヘリばかり。
ヘリの轟音は余震の地鳴りに似て、私たちをびくびくさせる。

当分、洗濯もできないだろうと、午後、
赤ん坊の必需品・紙おむつを買いに行った。
道路はあちこちでボコボコに波打ち、
傾いた家、倒壊した家が路地をふさぐ。
JR芦屋駅前のアーケード、駅ビルのあたり、
足元にはガラスの破片が散乱している。
病院前には「多紀郡(兵庫北部)」ナンバーの救急車が。
もっと近くからの応援は来ないのか。

余震が止まない。
震源に近いと、震度1でもどぉーん…と
不気味な地鳴りが聞こえる。
トイレを流す水が足りない。
頼みにしていた浴槽の湯は、揺れで半分以上こぼれていたのだ。

ようやく電気が復旧し、テレビのニュースをみる。
大地震だったのだと実感。
だが東京からの報道に妙な温度差を感じる。

翌日。水もガスもない生活では大人はともかく
赤ん坊の暮らしが成り立たないので、
寝屋川(大阪府)の叔母宅へ避難することになる。
叔母が知り合いの車を手配してくれ、
阪急・神戸線の西宮北口駅へ向かう。
幹線道路は渋滞。裏道は家が倒れ込み、
傾いた電信柱が行く手をふさぐ。

阪急電鉄は西宮以西は全面ストップだが
西宮〜梅田(大阪)間は動いていた。
梅田で降りた私がみたものは地下街のバーゲン。
電車で20分ほどの距離なのに、
梅田には神戸・芦屋とは別世界があった。
ふだんの、何でもない日常の風景。
神戸にも昨日まであったもの。

幸いにも家族にケガ人はなかった。
実家のある古いマンションは、
1階がピロティの駐車場だったが、
何とか倒壊せずに持ちこたえた。
運転に不便と文句が出るほど柱が多かったのと
固い地盤のおかげだったらしい。

芦屋市津知町に住む高校時代の親友は
子供をひとり亡くした。
知り合いの知り合いが多勢、深刻に被災した。

叔母の家に着いた翌朝、淹れたてのコーヒーを飲んだ。
そして思い出した。
地震前夜遅くに「コーヒー飲もか」と思ったのに、
明日にしよ、と考え直して寝たのだった。
その「明日」は、2日後を待たねばならなかった。
今やりたいことは今やらなきゃ。
以来、その考えが半ば強迫観念化していく。

1週間後、帰京。
家々がまっすぐ建っているのに不思議な感動を覚えた。
眠りは浅くなり、風の音でも目がさめる。
娘は今まで一度もしなかった夜泣きを始めた。

知人が励ましのつもりで言った何気ない言葉。
「まあ、めったにない、いい体験ができてよかったじゃない」
言った本人に悪気はないだろう、でも、
好きで大地震を体験したわけじゃない。

「同規模の地震が東京で起きた場合、どうなるでしょうか」
そんなシミュレーション報道にも、いちいちカリカリきた。
被災の現場と、情報発信する東京との間には、
くっきりと温度差があった。
今となっては冷静に「そういう分析も必要」と思えるけど。

阪神淡路、新潟中越、スマトラ沖。
大地震に冠された名前はいつか歴史の一部となり
人々の記憶から薄れていく。

あれから10年。
1月16日の夜は、いつも眠れない。
日付が17日に変わり深々と夜が更ける中、
あれこれ尽きぬ思いをめぐらし、
しーんとひとりで午前5時46分を迎える。

Comments

昨夜、NHKの深夜番組で阪神淡路の特集。
娘さんをなくされたお母さんの言葉。
「私には“復興”と言う言葉はピンと来ない。それは違う。“再生”ですね。」とおっしゃった言葉が心に残りました。
復興・・・再び盛んになること。
再生・・・心を入れ替えてやりなおすこと。
無くしたものはもう戻ってこない。再び同じ状態になることなど不可能なのだから、後ろを振り向かず前だけを見て生きていこう、そう思えるまで10年の月日が必要だったと。

災害は他人事ではなく、今自分に襲い掛かっても不思議ではない。そう覚悟は出来ているものの、いざ降りかかったら自分はどう対処できるのだろうか。
誰の責任にもできない被害への怒りを、どこにぶつけるのだろうか。
自分に自信がなくなります。

  • kira
  • 2005/01/17 3:25 PM

kiraさん、コメントありがとうございます。

>「私には“復興”と言う言葉はピンと来ない。それは違う。“再生”ですね。」

再生のほうが切実で、とても痛そう。
子供を亡くした友人も言ってました。
「(10年目の)区切りなんて言葉は関係ない人の言葉だと思う」
大きな痛みを負った人の言葉は重いです。

>誰の責任にもできない被害への怒りを、どこにぶつけるのだろうか。
怒りはよくも悪くもプラスのエネルギーたりえますね。
怒りとともに力も満ちてくるかもしれない。

私が地震後に感じたのはプラスにも転化する怒りではなく、なんだか巨大な喪失感でした。

人の命も含めて、形あるものはいつかは壊れちゃうんだあ〜って当たり前のことなのに、ずんずんマイナスな気持ちになっていくのです。

まっすぐだった家が傾き、平らだった道路は波打って、
あちこちに瓦礫が積もり、馴染み深い街が一瞬で変わってしまった、そのショックみたいなものが、こそこそと尾を引きました。

直接に深刻な被害を被らなかったけど、そういう精神的な脱力感は、ずいぶん続き、それを理解できないと言った元夫とは結局、そのことが遠因で離婚に至りました。ま〜、私も当時は自分のことで手一杯で「わかってもらおう」とする努力が足らなかったと、今にしちゃ思いますけどね。

その後、個人的にもいろんなことのあった数年を経て、
★できるだけの備えをしたら、あとはもう、気に病まない、
気にしても、しゃーない!
という気分になれたとき、やっと喪失感が薄らいだ気がします。

…長くなりました。元の投稿を含め、読んでくださった方々、本当にありがとうございました。

いまだに、もやもや心の底に沈んでいるものがあって、
書いたり、聞いてもらったりすることでしか、解消されない思いがあるからです。





 あの日、私は某社で小説雑誌の編集の仕事をしていました。それから1週間はちょうど締切時期だったので、東京在住の作家さんのエッセイをもらいに行きました。やはり阪神大震災のことを書いてました。友人が神戸にいて、無事だったという内容でした。
 読んでみて、この原稿はボツにさせてほしいといいました。誰もが神戸で助かったわけではないのです。それを1人の作家(読者数でいうとかなりな影響力があります)の狭い範囲での「いいお話」で済まされてしまうことに抵抗があったのです。できれば地震のことに触れてもらいたくないとも言いました。
 先輩の編集者は「雑誌やマンガは病院でいちばん読まれるんだよ。病人や病気に触れないで、そうしたことを忘れられるひとときを提供するのが勤めじゃねぇか」と言っていたことが身体に刷り込まれていたのでしょう。
 被災地の人が読んで元気づけられるものがいいと思いました。その判断でいくと、ごく狭い範囲で個人的に助かった話は、多くの被災者には酷なものになり得ると思ったのです。家族や子供を亡くしている方はたくさんいる。そう感じてました。
 作家は「いやだ」と言いました。4〜5時間議論をしました。こちらの言葉も足りなかったのでしょう。作家は最後まで「この原稿以外のものは書かない」ということでした。
 結局、その文章は雑誌に載りました。
 これも温度差といえることなんでしょうね。

米田さん、welcome!
>これも温度差といえることなんでしょうね。
うーん、難しい問題ですね。
個人的には、その作家が載せたいと思った判断は、よかったんじゃないかと思います。以下ちと長くなります。

ひとつ思うのは、“狭い範囲での「いいお話」”にも、意味があったのではないかな、ということです。
ニュースでは被災者、被災現場とひとくくりに言うけれど、実際には何百万人もの人がそこにいて、人の数だけ「震災のストーリー」ってのがあって。いい話も悲しい話も、ごちゃまぜに。でもすべて地震につながっている。
これは私の推測でしかありませんが、被災した人には自分とは違う、でも地震につながるストーリーを知りたい、という欲求がある(あった)と思うのです。自分はこうだった、でもこういう話もあるのね、と。近しい人を助けられなかった人には酷な面もあるかもしれないけど、同時に、ああみんながダメだったわけじゃなく助かった人もいるのだ、という安堵感を感じることもありえる。
大きな災害のあと、そんなにみんな「閉じて」いるわけじゃないと思うんですよ。いろんなことに「開いて」いくことで救われる人もいる。

うまく説明できませんでしたが、わかってもらえたでしょうか?

Post a Comment








Track back URL

http://midora.tblog.jp/trackback/8512

Trackbacks

阪神大震災 11年

本日未明で、阪神大震災から11年となった。あれから11年だが、昨日のように思い出すことが出来る。 兵庫県芦屋市津知町。命も、暮らしも、思い出も、何もかも呑み込んだあの震災。 木造二階建てが倒壊し、下敷きになった祖父。そこまで見えているのに、家の重

  • 技術士(化学部門)CANのブログ
  • 2006/01/17 7:09 AM

Go to top of page

トラ的bikeのポタDays
…てか最近はballetな日々

今年もがんばれ阪神タイガース!クリックするとタイガース公式サイトへお連れします♪

カレンダー

<< April 2024 >>
SunMonTueWedThuFriSat
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930